「失われた時を求めて」第七篇 文庫第十四巻「見出された時Ⅱ」プルースト作 吉川一義 訳 (岩波文庫):文庫の最終巻

2022/9/28
文庫第十四巻「見出された時Ⅱ」
何をどう表現するのか、その方法論の記述として捉える事が出来ると思います。一瞬一瞬の時空間と私の心の変遷に向き合って客観的に言葉で表現するという手法を用いています。それは、確かに失われた時の言葉を使った失われた時の描写です。だから、そういう時のそうした心の有り様は感覚を通しての理解が成り立ちます。
P136の10行目「まるで人生は、どれほど異なる図柄を織りなそうとしても、限られた数の糸しか所持していないかのようである。」この巻は、老いた主人公と関わる老いた人々との関わり合いから始まります。そんな老いから人生を振り返ると確かに限られた関わりにおいて生きて来たという、この人生観は一般的に確かなものだと思います。
作者の人生観を語っているP263 の後ろ6行目からの「しかしそれ以上に真実なのは、ーーーその結果、われわれの過去のどれほど小さな点とーーーそのどれとの交流がありうるかという選択が残されているだけだ、ーー」の一節は、この長い物語の思い出す先の記述とただ今読んでいる一節との繋がりにも似ています。言い換えると、その時々ごとの他者と関わる自分の心の変遷を物語るこの小説の手法と語られる作者の人生観とが重なり合っている事です。
そして、P267後ろから5行目「人が暗闇のなかで生きているーーー要するに人生がひとつの書物の中で実現される、そんなふうにーーー生きるに値するーーーなんと幸せなことだろう!」は、作者の小説に関わる世界観を語っています。
こうした、方法論が作者にとって覚醒されたものとして意識されているからこそ、P269の 8行目の「ーーーただほんとうにこのとおりかどうか、ーーー」が、この小説を読み進めて行く価値基準になるのだと思います。確かに読み手が内容を反芻するような仕組みが設けられています。
P277の5行目「ーーー他人の役に立ちうる利己的な喜びーーー」、この言葉は自らの小説の価値観を語っています。実に素晴らしい言葉です。また、書き込んで行く対象の見方を一つの視点から平面的に見るのではなくて立体的に多方面から見て、その対象を再創造するのだとするこの見方は、キュビスムの考え方と同じだと思いました。
その時のリアリティを、P300 の9行目「なぜなら、ーーー私の内部へ深くおりてゆきさえすれば、その瞬間にたち帰ることができるからである。」に書かれているように、過ぎ去った時の心に残っている印象や記憶に見ているのです。
老いた主人公を描く事から、時が関わって来た、そしてこれから関わるであろう「かぎりなく伸び広がっている」空間に、その時々ごとのリアリティを求める意思が表明されています。つまり、失われた時を求める事は際限の無い時空間を求める事にも繋がっていて、そこに作者は作品の普遍性を求めています。
 

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